石見銀山 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office  元に戻る TOP画面
石見銀山(いわみぎんざん)は、島根県大田市大森町にあり、大森銀山(おおもりぎんざん)と呼ばれたり、古い時代の地名石見国の佐摩から佐摩銀山(さまぎんざん)とも呼ばれます。主に仙山(せんのやま)と要害山(ようがいさん)周辺の柵内(さくのうち)と呼ばれる320ha(f)のエリアが石見銀山になります。
 初期の石見国に、七ヵ所から十数ヵ所の銀山があったそうです。しかし佐摩銀山以外のほとんどが閉山し、総称していた石見銀山の名だけが残ったのではないかと考えられています。
 今に残る遺跡として、坑道跡,代官所跡,山城跡,製錬所跡,銀山で働いていた人が生活していた集落跡,働いて亡くなった方を供養する地蔵仏やお寺などがあり、見学する場所も広範囲に広がっています。
石見銀山遺跡
間歩銀山に掘られた間歩(坑道)跡
集落跡集落跡,製錬所跡(吹屋,炉),道跡
銀山街道銀,鉱石,生活物資が運搬された銀山街道
港銀の積み出し、生活物資の搬入がされた(鞆ヶ浦港,沖泊港)
山城銀山防衛を目的に建てられた山城
神社銀山が栄えることを願って建立された神社
石仏銀山で働いて亡くなられた方の供養のために造建されたお寺,石仏
お墓銀山で主要な地位にいた方のお墓
製錬所跡近代製錬所跡
遺跡地図銀山遺跡地図
柵内地図銀山柵内地図
 
銀山跡
 F010−G2 石見銀山遺跡 龍源寺間歩  #F010−G3 石見銀山遺跡 龍源寺間歩
 龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)は島根県中央部の大田市大森町を中心とする仁摩町,温泉津(ゆのつ)町にまたがって点在する石見銀山遺跡の一つです。1526年から約100年間をピークに、大名の軍資金,江戸幕府の財源としてこの地から大量の銀が採掘されました。世界各地に輸出されたそうで、一時世界の1/3を占める量だったそうです。1600年以後は取れる量も減り銅を採掘するようになり、その後1923年に閉山したそうです。
龍源寺間歩補足説明:江戸時代の中頃1715年に掘られた代官所直営の坑道です。公開されているのは273mですが、実際は600mあるそうです。抗口:高さ2.5×巾2m、坑内:高さ約2×巾1m。公開されていない奥:高さ約1×巾0.6m。坑道に入れるのはここだけだそうです。※訂正2012年1月:世界遺産登録後、大久保間歩も見学できることになりました。
間歩(まぶ):鉱山用語の坑道のこと。間分・間府・真吹(まぶ):鉱石を掘る為に掘った横穴,鉱石を掘るために坑内に入ることだそうです。水路とかトンネルの隧道(ずいどう)も間歩と呼んでいる地方があるそうです。古くは、地方によって漢字(間分,間府,間保)や読み方(まぶ,まんぷ,まんぼ)が違った様です。石見銀山では坑道のことを間歩(まぶ)といっていたそうですし、この漢字が使われていました。トンネルの隧道で使われている「まんぼ,まんぼう」はオランダ語のマンプウから由来するとされていて間歩からからではない様です。しかし「まんぼ,まんぼう」に関しての語源は今後の研究課題となっているそうです。
石見銀山鼠取り:銀を採掘する時一緒に砒石(ひせき)といわれる亜ヒ酸(As23)を多く含む岩石も産出されるそうです。昔、その砒石を砕いて粉にしたものが、ネズミの駆除剤として使われていました。大森銀山からは砒石は産出されていないそうで、県西部石見国の銅鉱山から産出されて、この名で販売されていたそうです。
 #F010−4 龍源寺間歩内  #F010−G5 龍源寺間歩内
 #M165−5,−4 大久保間歩 上:坑口,下:説明板  #M165−11 大久保間歩 坑内
 #F010−G9 福神山間歩  #F010−G10 福神山間歩
 F069 釜屋間歩と岩盤加工遺構  #F069−2 釜屋間歩と岩盤加工遺構
 #F069−5 石階段を上った上階層の岩盤加工遺構  #F069−6 石階段を上った上階層の岩盤加工遺構
■窯屋間歩(かまやまぶ):慶長年間備中出身の山師、安原伝兵衛により発見・発掘された坑道です。この発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えたと伝えられています。
■釜屋間歩の由来:慶長7年(1602)備中出身の山師 安原伝兵衛は、近年銀の採掘量が減り、清水寺(せいすいじ)に祈願したそうです。祈願すること七日目に「銀の釜」を賜(たまわ)る夢を見たそうです。その夢を大久保石見守に申し上げ、資金を得てこの間歩を発見したそうです。
■岩盤加工遺構:銀の生産工程で銀の純度を高めるための施設が建てられていたと、考えられています。
■遺構(いこう):
■石階段:高さ約18m


仙山/仙ノ山 石銀遺跡
 F069−7,−8 石銀集落跡  #F069−9,−10 石銀集落跡
石銀集落跡(いしがねしゅうらくあと)

 仙ノ山山頂に広がっている一帯の平坦地群は、「石銀」,「石銀千畳敷」,「石銀藤田」という地名が残り、当時の銀製錬の町がありました。
 発掘調査によって、谷の中央を幅2mの道が走り、道に面して建物が立並んでいたことが明らかとなりました。
建物の時代は、出土した陶磁器の年代から江戸時代前期と推定されます。建物の間口(道に面した部分)は幅広く作られており、建物内部には鉱石を粉にする要石(かなめいし)、粉になった鉱石を比重選鉱(ひじゅうせんこう)する施設、地面を掘りくぼめて作られた製錬炉が確認されました。製錬炉は各々の建物に作られており、直径約20cm〜90cmと大きさは不揃いです。
 建物跡では生活用具も出土しており、一帯に町が形成され、職場と住まいが一緒の暮らしがなされていたようです。
NO1.間歩(まぶ)手前では、16世紀代の地層の中から灰吹き精錬用の鉄鍋が発見されました。
また、発掘調査の成果としてその他に、建物が存在していた遺構(いこう)の面が9面あることや、建物基礎の部分である礎石(そせき)の上に柱や壁土が残ったままの状態で発見されるなど銀山最盛期の町が地下に眠っていることがわかりました。
石銀千畳敷(いしがねせんじょうじき)

 仙ノ山山頂の南東、標高470mに位置し、平成5年(1993)から平成7年(1995)まで林道工事に先立って500uが発掘調査されました。
 テラス(平坦地)の中央に、南北方向に幅約2mの道があり、道をはさんだ両側で建物の礎石が発見されました。建物の内部には、炉跡、石を積んで築いた土坑(どこう)などがあり、銀製錬作業を示す羽口(はぐち)や製錬工程で捨てられたカラミが出土しています。西側のテラスには坑口があり、鉱石の採掘場所に接して製錬所が建つことなど、山頂部の銀生産と生活の様子が初めて明らかにされた場所です。


注1.説明文を利用される場合は、大田市役所の許可が必要と思います。本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。
注2.昔鉛のことを石銀(いしがね)と呼んでいました。精錬には鉛が利用され、この地が銀製錬場所であったことから名付けられたと想像できます。
 #F069−15 仙山 登り途中  #F069−16 仙山 頂上(標高537.8m国土地理院地図調べ)


出土谷の製錬所跡
 #F071,−1 製錬所跡  #F071−2,−3 永久鉱床を採掘した間歩246,247番
 #F071−4 説明板  F071−5 出土谷の炉跡と灰吹銀 (左説明板の写真)
■出土谷(だし つち だに)

天文2年(1533)、博多の商人神屋寿禎(かみやじゅてい)が連れてきた技術者 慶寿(けいじゅ)が、革新的な灰吹法(はいふきほう)の技術を石見銀山に導入し、それがその後の大発展をもたらす契機になりました。かれが住んだのがこの出土谷だとされています。
 江戸時代の文献にも「出し土」の地名が残るこの谷には階段状に区画が連なっています。まず17世紀はじめごろに石垣を積んで区画整理をしたらしく、さらに18世紀後半に大規模な再区画工事があった状況が発掘調査で判明しています。現状のような区画と石垣はその最後の工事のものであり、18世紀後半〜19世紀中ごろの銀・銅を製錬した建物跡も確認しています。


付近一帯に見られる間歩(坑道)は銀銅鉱床である「永久鉱床」を採掘した坑道です。
明治時代に藤田組が採掘を再開したのはこの谷であり、この場所にはそのときの廃石など積み上げたズリ山がありました。このズリ山の下から灰吹法で抽出した銀塊(ぎんかい)である灰吹銀が国内で初めて出土しています。江戸時代のものと思われます。


銀山道/遊歩道
 #F013−G1  #F013−3


銀の町大森
 #F061,−2,−9 大森町 [拡大  #F061−6,−7,−8 大森町
 #F061−3 代官所跡  #F061−3b 代官所跡 2008/02/19
 #F061−4 銀の町メインストリート  #F061−5 そば屋 朝日庵
■この道沿いにみやげ物屋、そば屋、旧家などを見学する場所があります。 ■そば屋 朝日庵(あさひあん):
大田市大森町駒ノ足ハ−171 TEL:0854-89-0845 水曜休み
手打ちの天ざるそばと、二食ざるそばが人気だそうです。
 #F061−1 大森町  #F061−10 最近の大森町(2007.12.11撮影) 


石見銀山資料
間歩/坑道
間歩名称 説明 間歩番号 年代 採掘方法 その他
龍源寺間歩
(りゅうげんじまぶ)
 江戸時代の中頃1715年に掘られた代官所直営の坑道。公開されているのは273m、実際は約600m。抗口:高さ2.5×巾2m、坑内:高さ約2×巾1m。公開されていない奥:高さ約1×巾0.6m。坑道に入れるのはここだけ。 500 江戸時代
中頃
  代官所直営
福神山間歩
(ふくじんやままぶ)
 この間歩は、採掘にあたった山師個人が経営した自分山(じぶんやま)ではあるが、一時期、代官川崎市之進(1767〜1778年)のころに、代官直営の御直山(おじきやま)の坑道になったこともあった。 460      自分山
御直山
新横相間歩
(しんよこあいまぶ)
 この間歩は江戸中期以後に横相という採掘技術で開発された、代官所直営の御直山で、五か山の一つであった。良鉱を多く出しており、最も採鉱が盛んな時期であった安政5年に働いた労働者は、総数50人ほどだったと推測されている。坑道は、入り口から水平に約370mほど続いているが、現在は約40m地点で崩れている。   江戸中期以後 横相 横相
五か山
新切間歩
(しんきりまぶ)
 この間歩は、幕府代官所直営の御直山と呼んだ間歩の一つで、正徳5年、代官鈴木八右衛門のときに開発し、最初は水抜き坑として掘ったものとされる。江戸時代後期には、坑口から520mまで堀り進んでいたが、その後休山となった。銀山の間歩のなかでは、最も大森の町に近い場所にある。       鈴木八右衛門
釜屋間歩
(かまやまぶ)
 慶長年間備中出身の山師、安原伝兵衛により発見・発掘された坑道。この間歩発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えた。 100      安原伝兵衛
大久保間歩
(おおくぼまぶ)
 江戸時代から明治時代にかけて大規模に開発された坑道。江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安が槍(やり)を持って馬に乗ったまま入ったという伝承から、大久保という間歩名になった。 165 江戸〜明治 横相 大久保長安
永久坑
(えいきゅうこう)
 永久坑は、御直山として元は泉山(いずみやま)に採掘された坑道。当初は龍源寺間歩の水抜き坑として開発された。元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1.4Km掘られた石見銀山屈指の坑道。   江戸中期〜
大正年間
  泉山
城跡
城跡名 説明 築城 城の形体 /目的  その他
山吹城
(やまぶきじょう)
 武将、大内義隆(おおうちよしたか)が石見銀山を所有し、その防衛の為に築城した山城。築城は天文2年(1533)で、銀山所有の戦いにより、1562年に毛利氏に奪われ、1600年には徳川領となる。 天文2年
1533年
大内義隆
山城/
毛利氏の代で役所となる
銀山防衛 要害山
(標高414m)
石見城
(いわみじょう)
 石見銀山から日本海に至る街道沿いにあり、銀山を押さえる拠点になった城   山城 仁摩方面の
街道防衛
竜ー山
(標高154m)
矢滝城
(やたきじょう)

矢筈城
(やはずじょう)
 矢滝城跡の北側には石見銀山から温泉津港(ゆのつこう)に至る銀山街道(温泉津・沖泊:おきどまり)があり、更にその北側には矢筈城跡(やはずじょうあと)があり、銀山街道をはさむ形で築かれた矢滝城と矢筈城が一対となって銀山防衛、交通路掌握の機能を担(にな)っていた。 享禄元年
1528年
大内義興
山城

山城
温泉津方面の
街道防衛
矢滝城山
(標高634.2m)
名なしの山
(標高479.9m)
鵜丸城
(うのまるじょう)

串山城
(くしやまじょう)
別名:櫛島城

笹島城
(ささじまじょう)
 鵜丸城は毛利元就の命により、沖泊港,温泉津港の防衛、主に石見銀山の銀搬出,運搬に関する安全と安定を図る目的で、1571年(元亀2年)に毛利輝元が築城した。対岸の串山城(櫛島城)と笹島城とで、三つの城を基盤に毛利水軍の拠点となっていた。特に鵜丸城は銃陣を配した実践的工夫がなされていた。また毛利水軍は周辺海域を征し、出雲地方を征服する戦略拠点として重要視していた。 1571年
毛利輝元

尼子方の
温泉(ゆ)氏 


 
 
 

もともとは居城
 



港と海上の防衛
船の監視と警護
 
 

串山
(標高37m)
国土地理院
地図では42m


 
不言城
(ふげんじょう)
別名:福光城
 1580〜1581年頃、石見銀山をめぐる戦いの場所となった城。鳥取城で豊臣秀吉と戦って敗れた、毛利一族の武将吉川経家の居城(きょじょう)。 1560〜70年
経家の父
吉川経安
居城 生活 吉川経安墓所
代官所跡/番所跡
代官所/番所 説明     その他
大森代官所跡
 (おおもりだいかんしょ)
        
番所跡(ばんしょ) 10ヵ所
 1.蔵泉寺口(ぞうせんじぐち)
 2.吉迫口(よしさこぐち)
 3.畑口(はたぐち)
 4.坂根口(さかねぐち)
 5.栃畑口(とちはたぐち)
 6.荻峠口(おぎとうげぐち)
 7.本谷口(ほんだにぐち)
 8.水落口(みずおちぐち)
 9.曽根口(そねぐち)
10.清水口(しみずぐち)
 江戸時代、石見銀山の柵内(さくのうち)には柵を廻(めぐ)らし、その柵には街道に通じる10か所の出入り口に番所を置いていた。番所では人の出入りを監視するとともに、商人が銀山に運び込む物資に課税(かぜい)し、徴収(ちょうしゅう)していた。10か所の番所の位置は時代によって変わった。
吉迫口:銀山の北西側、銀山と鞆ヶ浦を結ぶ主要街道への出入り口の番所
坂根口:銀山の西側、港のある温泉津と銀山とを結ぶ主要街道への出入り口の番所として、江戸時代を通じて設置されていた。 
番所の大きさ:
間口3間(5.8m)
奥行2間(3.9m)

門,番所の構造:
不明
絵図では平屋
  番号は、北から
反時計方向の順 
精錬所跡と関連遺跡
名称 説明 年代 場所
石銀遺跡
 (いしがねいせき)
 集落跡
 製錬施設跡
 石銀遺跡は仙山(せんのやま)の山頂付近にある鉱山遺跡。16世紀末から17世紀初頭に町があったとされる。この町は銀山開発の初期に作られた町で、山頂の地表に見える銀鉱床を露頭掘り(ろとうぼり)していた。その後山腹から穴を掘る、坑道堀り(こうどうぼり)の技術が進み、人々は平地に移住し、施設や住居がそのまま残された。その施設や住居跡。★銀の道振興協議会「ふるさと学習誌」石見銀山〜戦国時代の遺跡を歩いてみよう〜を参考 16世紀末〜
17世紀初頭
昔鉛のことを石銀と呼んでいました。精錬には鉛が利用され、この地が製錬場所であったことから名付けられたと想像できます。 仙山
(標高537.8m)

集落跡
(標高470m)
出土谷
 (だしつちだに)
 集落跡
 製錬所跡
 博多の商人神屋寿禎が連れてきた灰吹法の技術者 慶寿(けいじゅ)が住んだのが出土谷だとされている。江戸時代の文献にも「出し土」の地名が残るこの谷には階段状に区画が連なっている。現状の区画と石垣はその最後の工事のもので、18世紀後半〜19世紀中頃の銀・銅を製錬した建物跡も確認されている。またこの場所には近代製錬所で出た廃石を積み上げたズリ山があった。このズリ山の下から江戸時代のものと思われる灰吹法で抽出した灰吹銀が国内で初めて出土した。 製錬所,住居跡
18世紀後半〜
19世紀 
   
柑子谷
 (こうじだに)
 永久坑
 永久鉱山跡
 (大森鉱山跡)
 永久製錬所跡
 永久坑(えいきゅうこう)は、御直山(おじきやま)として元は泉山(いずみやま)に採掘された坑道。当初は龍源寺間歩の水抜き坑として開発された。元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1.4Km掘られた石見銀山屈指の坑道。安永7年(1778)には永久稼所(えいきゅうかせぎどころ)と呼ばれる製錬所も稼動し、江戸時代を通じて開発が行われた。
 明治20年(1887)に藤田組が大森鉱山として近代的な操業を開始。明治32年(1899)に優良な銅鉱脈 内中瀬鉉(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎え、大正12年(1923)に採掘条件の悪化等により休山。
江戸中期〜
大正年間

永久製錬所
明治〜大正
永久製錬所遺構
窯跡
分析場跡
選鉱場跡
沈殿池跡
煙道跡
坑口
仁摩町大国
柑子谷地区
清水谷
 (しみずだに)
 製錬所跡
 明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の坑道を利用した地元の人たちによる小規模な採掘がかろうじて続いていた、明治27年に大阪の藤田組が、仙山(せんのやま)の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、近代的な製錬所を建設。しかし鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力もなかったことから不採算となり、明治29年で操業を停止。その施設跡。 明治27〜29年操業1年半    
栃畑谷
 (とちはただに)
 製錬遺構,間歩 
 発掘調査ではじめて製錬遺構が発見されたのがこの地。16世紀中ごろの遺構のほかにも江戸時代の文献に「三尺」とある灰吹炉や明治時代の藤田組に関連する建物跡も見つかっている。
 文化13年の銀山旧記には「長崎より唐人なりと来たり住す。朽多の頭に唐人屋敷,唐人橋という名あり」とあり、近くに小字(こあざ)朽多(くた)と唐人橋の名が残っており、唐からの技術導入をこの地区に伝えている。
  過去存在した寺
神宮寺,妙像寺
妙本寺,蓮教寺
長楽寺,長福寺
虎岸寺,西福寺
灰吹炉
唐人橋
朽多
昆布山谷
 (こぶやまだに)
 新横相間歩
 昆布山谷は水上町三久須へ抜ける街道があり、一帯には寺跡、集落跡、間歩が残る。特に五か山の一つで、代官所直営の御直山(おじきやま)である新横相間歩がある谷として知られる。      新横相間歩
下河原吹屋跡
 
 
       
銀山街道/街道沿いの遺跡
街道名 説明 年代 距離 遺跡/伝承 
鞆ケ浦道
(ともがうらどう)
 鞆ヶ浦道は、銀山から鞆ヶ浦(友の浦)まで約7Km、港まで最短距離の街道。16世紀前半の銀山開発初期に銀鉱石や生活物資などが運搬された。
石見銀山柵内→吉迫口番所→柑子谷・永久製錬所→上野集落・胴地蔵→馬路高山山麓・宝篋印塔→鞆ヶ浦(友の浦)
16世紀前半
大内氏の時代
銀山〜鞆ヶ浦
約7Km
最短6.5Km
永久製錬所跡
 (えいきゅうせいれんしょあと)
胴地蔵さん
 (どうじぞうさん)
五輪原の宝篋印塔
 (ごりんばらのほうきょういんとう)
沖泊道
(おきどまりどう)
 沖泊道は、銀山から沖泊まで約12Kmの街道。16世紀後半毛利氏の時代に、銀や生活物資などが運搬された。街道途中には幾つかの難所があり、大変であったことが、歴史的遺産や伝承として残る。
石見銀山柵内→坂根口番所→降路坂→宿場町・西田→清水集落・金びしゃく井戸→温泉津→沖泊
16世紀後半
毛利氏の時代
銀山〜沖泊
約12Km
降路坂/降露坂
 (ごうろざか)
宿場町・西田
 (にした)
金びしゃく井戸 名水百選 
 (かなびしゃくいど)
港名 説明 年代 運搬物   その他 
鞆ケ浦港
(ともがうらこう)
 鞆ヶ浦は、銀山から直線で6.5Kmと最短距離の港にあたり、銀山開発の初期に銀鉱石を積み出した港。  16世紀前半
大内氏の時代
銀鉱石,銀,
生活物資など
  厳島神社
沖泊港
(おきどまりこう)
 昔、石見銀山の銀積み出しで栄えた港。入り江が深く水深も深いため、港としては好条件の天然港。所々に見られる岩に開いた穴は、その時代に手彫りで彫られたもので、鼻ぐり岩という。銀や生活物資の運搬を行う船を係留(けいりゅう)する目的で作られた。 16世紀後半
毛利氏の時代
銀,
生活物資など 
  鼻ぐり岩
恵比須神社
温泉津港
(ゆのつこう)
    はんど
生活物資など
  温泉津焼
はんど
お寺
寺名 説明 開創/開基 山号/寺号 本尊/宗派 その他
羅漢寺
(らかんじ)



五百羅漢
(ごひゃくらかん)
 五百羅漢は大田市大森町、羅漢寺そばの石窟にあり、石仏は釈迦,文殊,普賢の3仏と、高さ約40cm前後の501体の羅漢座像が並ぶ。これらの石仏は、全て福光石で彫られていて、細かな表情や表現が今も風化することなく残っている。
昔石見銀山で働いていた労働者の安全と亡くなられた方の供養から五百羅漢が造られた。

羅漢寺は五百羅漢を護るために建立された。
1741〜
1743年

月海浄印
石室山
(いしむろざん)/
羅漢寺 
阿弥陀如来
不動明王
愛染明王

高野山真言宗
石見観音霊場
札所番外

福光石
名水三百水
清水寺
(せいすいじ)
 清水寺(せいすいじ)は、元々仙山(せんのやま)頂上付近の石銀(いしがね)に、天池寺という名で建てられていたそうです。それが平安時代に清水谷に移され改名して清水寺となり、幕末に仙山中腹に移転し、その後明治11年に現在の地に移されたそうです。このお寺には、徳川家康公から頂いた「辻ヶ花染丁字文胴服」を所有され、この胴服は国の重要文化財に指定されています。(県ホームページより)  推古天皇の
時代
銀峰山

清水寺
十一面
観世音薩菩

真言宗
石見観音霊場
札所7番

辻ヶ花染丁字文胴服
清水大師寺
(しみずだいしじ)
 弘仁3年(812年)、弘法大師が、堂床山麓に一字を建て、観世音菩薩を勧請したのが清水大師寺の始まり。正安3年(1301年)に、石見銀山争奪戦の犠牲者を弔うため、勝尊法師が一堂を建てたと伝えられる。天文8年(1539年)に、清水大師寺の建物が消失。時の庄屋が再建。
(清水大師寺説明板より)
弘仁3年
(812年)

弘法大師
堂床山

清水大師寺 
大日如来

高野山真言宗
石見観音霊場
札所31番 
神社
社名 説明   祭神 その他
城上神社
(きがみじんじゃ)
 城上神社は、もともと馬路の城上山(高山)に建てられていた。
1434年に大内氏が石見銀山が栄えることを願って、大森の香語山(愛宕山)に移したしたと伝えられ、その後銀山を所有した、毛利氏によって1577年に現在の場所に移された。  
  大物主命
(大国主命)

重層式入母屋造瓦葦屋根

鳴き竜
佐毘売山神社
(さひめやまじんじゃ)
 佐毘売山神社は、1434年室町幕府六代将軍足利義教の命によって、周防の国守大内時世が、美濃郡益田から分霊を移し、金山彦命を祀った神社と伝えられている。鉱山を所有した幾代もの権力者は、崇敬して武運長久と銀山の盛山を祈願した。    金山彦命
(金屋子彦命)
重層屋根 
石見銀山遺跡地図
石見銀山の歴史
年代/元号 大内氏(山口) 尼子氏(出雲)

小笠原氏
(地方領主)
毛利氏(広島) 豊臣秀吉 徳川家康
仁摩側の銀山街道を通り、
鞆ヶ浦港から船で博多や朝鮮へ運ぶルート
温泉津側の銀山街道を通り、沖泊港から船で北九州へ運ぶルート 銀山から中国山地を越え、瀬戸海から船で大阪へ運ぶルート
1309年
[鎌倉時代]
大内弘幸によって発見され、自然銀が採取された
(銀山旧記より)
      
1434年/永享06年
[室町時代]
城上神社を大森の香語山 (愛宕山)に移す      
大内時世が佐毘売山神社に美濃郡益田から分霊を移して金山彦命を祀る
1493年/明応02年
戦国時代の始まり
1526年/大永06年 神屋寿禎が航海中に明るい光があるのを沖から見つけて銀山を発見、本格的採掘が始まる      
1528年/享禄元年 大内義興が矢滝城築城      
銀の輸出が始まる、この時代以前は輸入していた
1530年/享禄03年 大内義隆、銀山奪われる 小笠原長隆が銀山を奪う    
1533年/天文02年 小笠原氏から銀山を奪い返す      
大内義隆が山吹城築城
神屋寿禎は大内氏の許可を得て、朝鮮から灰吹法を取り入れ銀の精錬を始める
1537年/天文06年 尼子経久が石見国に侵攻、銀山奪う
1539年/天文08年 尼子氏から銀山を奪い返す
1541年/天文10年 尼子氏が小笠原氏を使って銀山奪う
1542年/天文11年 朝鮮へ石見銀流入朝鮮で銀価が下落
1545年/天文14年 銀山をめぐる争い      
神屋寿禎が鞆ヶ浦の厳島神社に弁天像奉納
1551年/天文20年 大内義隆、尼子氏との戦いに戦意なくし、文芸の道へ
内紛により、自決
これを期に、急激な衰退
銀山をめぐる争い    
1557年/弘治03年 滅亡
1562年/永禄05年 山吹城毛利氏に奪われる 石見国を平定    
1570年/永禄13年   尼子勝久が、尼子再興の軍をおこす      
1571年/元亀02年   尼子氏の軍を考慮して、毛利輝元が鵜丸城築城    
1573年/元亀04年
戦国時代の終り
1577年/元亀08年
[安土桃山時代]
  城上神社現在の地に移す    
1581年/天正09年   鳥取城で豊臣に吉川経家敗れる、のち不言城焼失 鳥取城攻めで勝利  
1584年/天正12年 豊臣の大名ととなり豊臣に銀を納める
1590年/天正18年   全国統一  
1592年/天正20年 毛利輝元
朝鮮出兵3万人
朝鮮出兵、西日本の大名組織で進撃
合計15万8千人
家康,東国大名10万人佐賀(名護屋)に待機
1593年/文禄02年 石見銀から「石州文禄御公用銀」を造り、戦費にあてる
1597年/慶長02年 和議交渉 決裂
再度朝鮮へ出兵
1598年/慶長03年 寒さと飢え、秀吉の死後、軍引上げ
1600年/慶長05年   銀の採掘量が減り始める 関が原の戦いに勝利
10日後に銀山接収
1601年/慶長06年 大久保長安が初代の奉行となり、銀山を管理し、石見国を治める
1602年/慶長07年 安原伝兵衛が釜屋間歩を発見し、採掘を始め、採れる量増える
1603年/慶長08年
[江戸時代]
      家康は将軍となり
幕府を開き、石見銀山を天領とする
安原伝兵衛は釜屋間歩で採掘量を増やし、多額の運上金を納め、家康公から胴服と扇子頂く
年間1万貫(約38t)産出
1675年/延宝03年 奉行から代官へ役職が替わり、初代代官に柘植伝兵衛がなる
1715年/正徳05年        龍源寺間歩採掘
1766年/明和03年 2007.03.17年代訂正     五百羅漢が完成
1800年/寛政12年 大森の2/3を焼き尽くした寛政の大火で、
城上神社の社殿焼失
1812年/文化09年        城上神社の拝殿再建
 1818年4月/
      文化15年
    城上神社の鳴き竜描かれる
 1818年4月/
      文政元年
佐毘売山神社の社殿大火で焼失
1819年/文政02年 佐毘売山神社
代官所の援助で、再建
明治の初め 一部の既存の坑道を利用した地元の人たちによる小規模な採掘がかろうじて続く
1894年/明治27年 大阪の藤田組が、仙山(せんのやま)の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、清水谷製錬所を建設し操業を開始する
1896年/明治29年 清水谷製錬所は、鉱石の品質が思ったより悪く、設備の銀の製錬能力も劣っていたことから不採算となり、操業停止
その後、藤田組は柑子谷(こうじだに)に永久製錬所を新たに建設して、銅生産を中心に操業
1923年/大正12年 永久鉱山(大森鉱山)採掘条件の悪化等により休山
大正13〜昭和18年 永久鉱山で銅鉱石など掘る開発が幾度かされる
/昭和18年9月 台風26号通過に伴う豪雨で、永久坑道内に水があふれ、石見銀山最後の坑道も、事実上閉山 
2007年05月12日 ユネスコの諮問(しもん)機関である国際記念物遺跡会議(イコモス)が、石見銀山の普遍的価値の証明が不足しているとして、世界遺産登録を延期するようにユネスコに勧告し、この日ユネスコが延期勧告を発表した。文化庁は今後普遍的価値を示す資料を、修正して提出することになるが、延期される公算が高くなった。
2007年07月02日 世界遺産登録延期勧告から一転、ニュージランドで開催された第31回ユネスコ世界遺産委員会の審査で、2007年06月28日石見銀山が世界遺産に登録されることが発表され、2007年07月02日に登録された。国内での登録は、14番目。 
歴史資料
大内氏(おおうちし)
 大内弘幸(ひろゆき)
 大内時世
 大内義興(よしおき)
 大内義隆(よしたか)
 ―――――
 神屋寿禎(かみやじゅてい):博多の商人
  銀山を見つけ大内氏に許可を得て、本格的に銀山採掘を始めた
  朝鮮の灰吹法を取り入れて銀の精錬を行った
  この技術により、銀鉱石を運んでいたのが、銀のみ運べることに
 慶寿(けいじゅ):灰吹法の技術者
 
■西暦 キリストの誕生を元年とする暦
■世紀 西暦で100年を1単位とする数え方
 16世紀 西暦1501〜1600年
 17世紀 西暦1601〜1700年
 18世紀 西暦1701〜1800年
 19世紀 西暦1801〜1900年
 20世紀 西暦1901〜2000年
 21世紀 西暦2001〜2100年

■元号
 永享 1429年09/05〜1441年02/17 えいきょう
 明応 1492年07/19〜1501年02/29 めいおう
 大永 1521年08/23〜1528年08/20 だいえい
 享禄 1528年08/20〜1532年07/29 きょうろく
 天文 1532年07/29〜1555年10/23 てんぶん
 弘治 1555年10/23〜1558年02/28 こうじ
 永禄 1558年02/28〜1570年04/23 えいろく
 元亀 1570年04/23〜1573年07/28 げんき
 天正 1573年07/28〜1592年12/08 てんしょう
 文禄 1592年12/08〜1596年10/27 ぶんろく
 慶長 1596年10/27〜1615年07/13 けいちょう
 正徳 1711年04/25〜1716年06/22 しょうとく
 明和 1764年06/02〜1772年11/16 めいわ
 文化 1772年11/16〜1818年04/22 ぶんか
 文政 1818年04/22〜1830年12/10 ぶんせい
 明治 1868年09/08〜1912年07/30 めいじ
 大正 1912年07/30〜1926年12/25 たいしょう

■時代
 鎌倉時代    1185年頃〜1333年頃
 室町時代    1336年または1338年頃〜1573年頃
 安土桃山時代 1568年または1573年頃〜1600年
 戦国時代    1493年〜1573年
 江戸時代    1603年〜1867年
 明治時代    1868年09/08〜1912年07/30
 大正時代    1912年07/30〜1926年12/25
毛利氏(もうりし)
 毛利元就(もとなり)
 毛利輝元
 ―――――
 吉川経家
 
尼子氏(あまごし)
 尼子経久
 尼子勝久(かつひさ)
 尼子晴久(はるひさ)
 
小笠原氏(おがさわらし)
 小笠原長隆
 
豊臣秀吉(とよとみひでよし)
 
徳川家康(とくがわいえやす)
 ―――――
 大久保長安(おおくぼながやす)/
 大久保石見守長安(おおくぼいわみのかみながやす):
 ・1545年甲斐(山梨県)に、貧しい猿楽師の子として生まれる
 ・大久保忠隣(ただちか)に見出され、大久保性を受ける
 ・推挙(すいきょ)されて、徳川家康に仕(つか)える
 ・慶長6年(1601)初代石見銀山奉行となる
 ・石見銀山の他、佐渡金山,伊豆銀山奉行を兼任し、増産に成功
 ・大久保間歩の由来は、長安が槍(やり)を持って馬に乗ったまま
  入ったということから付けられたと、伝えられている。
 ・安原伝兵衛の見た夢に資金を提供し、釜屋間歩の発見につなげた
 ・1613年没。死後、不正が発覚し、遺子7人切腹

 柘植伝兵衛(つげでんべい):初代代官
  延宝3年(1675)銀の産出量も減り、奉行所から代官所に
  格下げとなり、奉行から代官の役職に替わった。

 鈴木八右衛門(すずきやえもん):代官
  正徳5年(1715)新切間歩の開発に携わる。
 ―――――
 安原伝兵衛/安原備中:
 備中出身の山師。釜屋間歩発見し、採掘を始めた人
 慶長8年(1603)に銀3600貫(13.5t)を採掘し、多額の運上金
 を納め、家康公から辻ヶ花染丁字文胴服と扇子を頂く。
 
石見銀山/大森銀山(おおもりぎんざん)/佐摩銀山(さまぎんざん)
三つの呼び名は同じ銀山を示します。
大森銀山:銀山は現在島根県大田市大森町にあり、大森という地名から大森銀山とも呼ばれています。
佐摩銀山:銀山は古い時代石見国の佐摩(サマ)にあり、その地名から佐摩銀山と呼ばれていました。外国では古い時代の呼び名がそのまま残っていて、石見銀を、ソーマ銀と呼でいます。
注:現在佐摩の名は、大森から北に2〜3Km行きますと、大田市久利町佐摩(くりちょう さま)の地名で残っています。
石見銀山:初期に石見国には七ヵ所から十数ヵ所の銀山があったそうです。しかし佐摩銀山以外は閉山し、それを総称していた石見銀山の名だけが残ったのではないかと考えられています。
(山陰中央新報ニュースより)
ソーマ銀サマ銀






石見銀山鼠取り:銀を採掘する時一緒に砒石(ひせき)といわれる亜ヒ酸(As23)を多く含む岩石も産出されるそうです。昔、その砒石を砕いて粉にしたものが、ネズミの駆除剤として使われていました。大森銀山からは砒石は産出されていないそうで、県西部(津和野町)の石見国の銅鉱山から産出されて、この名で販売されていたそうです。
灰吹法(はいふきほう):金や銀を精錬する方法の一つです。
 銀鉱石を砕いて、鉛を加えて熱し、銀が溶込んだ鉛の合金(基鉛)を作ります。骨灰と基鉛を高温で熱すると鉛は溶けて灰に吸収され、後に灰にはじいた銀のみ残る精錬法です。
注:灰吹法は鉱石を砕いたり、基鉛を作る工程を含めていうのではなく、骨灰と基鉛を加熱して、鉛を灰に吸収させて銀を得る精錬法をいうそうです。漢字に「製錬」が使われず、「精錬」が使われている理由がこのへんにある様です。
■製錬(せいれん):鉱石から金属成分を分離抽出し、精錬(せいれん)して純度の高い、地金を作ること
■精錬(せいれん):作ろうとする金属の金属成分の純度を高めること
■製錬と精錬の違い
 HP.管理人には良く分かりませんが、精錬工程を含めた地金作りや、鉱石から抽出する金属の量をおもきにおいて使う場合は製錬を使い、混じりけの少ない純度をおもきに使う場合、精錬を使う様です。
採掘技術 横相(よこあい)とひ押し
 横相は弦(つる)と呼ばれた鉱脈を追いかけて掘り進むひ押しという技術に対し、鉱脈の方向をあらかじめ調査して、弦の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった弦を堀進む採掘の技術です。ひ押しは、地中深く掘るにつれ地下水が湧き上がり、作業ができなくなりますが、横相は、排水を兼ねた水平坑道などで、坑内にたまった地下水が処理できるようになったそうです。
■露頭掘り(ろとうぼり):地表に露出した鉱脈を採掘
 特徴1.地表に見えた鉱脈を掘るので技術が簡単
 特徴2.地表に見えた鉱脈は少なく、沢山の量が採掘できない
■ひ押し(ひおし):鉱脈に沿って坑道を掘る
 特徴1.鉱脈を連続して掘り進むので効率がよい
 特徴2.坑口より低く掘り進むと坑内に水が溜まる
■横相(よこあい):水平な坑道を掘ってぶつかった鉱脈周辺のみ採掘し、更に鉱脈が見つかるまで水平坑道を堀り進む。(ひ押しで掘った坑道内の水を排水するために作った排水坑から生まれた技術)
 特徴1.坑道が水平なので水はけが良く、坑内に水が溜まらない。
 特徴2.鉱脈から鉱脈までの坑道堀りが大変
辻ヶ花染丁字文胴服(つじがはなぞめちょうじもんどうぶく)
/辻が花染丁子紋道服(つじがはなぞめちょうじもんどうぶく):
 
 備中出身の山師安原伝兵衛が徳川家康公から頂いた胴服(どうぶく)で、国指定の重要文化財です。
 慶長7年(1602)安原伝兵衛は、近年銀の採掘量が減り続けたことにより、清水寺(せいすいじ)に祈願したそうです。祈願すること七日目に、「銀の釜」を賜(たまわ)る夢を見たそうです。その夢を大久保石見守に申し上げ、資金を得て釜屋間歩を発見し、大量に銀を採掘したそうです。慶長8年(1603)徳川幕府に多額の運上金を納めたことから、伏見(ふしみ)で家康公からこの胴服と扇子(せんす)を頂いたそうです。そしてその後、胴服はお寺に納められたそうです。
(県ホームページより)
 
■辻ヶ花(つじがはな)/辻ヶ花染(つじがはなぞめ):
 室町時代初期に出現した華麗な絞り染めの一種で、江戸初期まで流行していました。由来はよくわかっていないそうで、斜めに走った花模様に絞りを解いて現れた十字模様が、町の辻(十字路)に似ているという説などがあります。
■丁字文(ちょうじもん)/丁子紋(ちょうじもん):
フトモモ科の常緑高木の種子を図柄にした紋です。ダイコンを2〜8本配して、図案化した形をしています。
■胴服(どうぶく):室町時代から江戸時代にかけて武将が羽織った腰丈の上着。胴着(どうぎ)
■道服(どうぶく/どうふく):高貴な方が着物の上に羽織った上衣で、その後道中着(どうちゅうぎ)となり、羽織の元になったそうです。
注:胴服=道服? 調査中
銀山旧記(ぎんざんきゅうき): 柵内(さくのうち): 広さ約320ha(f)
・石見銀山遺跡の中心部。銀鉱石の採掘跡、製錬施設跡をはじめとしてそこで働いていた人々の集落跡、社寺跡、役所跡、山吹城跡など多くの遺跡が集中しています。江戸時代に銀山管理のために周囲に柵を巡らしたことから柵内(さくのうち)と呼ばれています。
・寛永18年(1641)からは松を植えた松垣によって鉱山の内外が区別されました。
・江戸時代、柵から街道に通じる10か所の出入り口に番所を置き、番所では人の出入りを監視するとともに、商人が銀山に運び込む物資に課税(かぜい)し、徴収(ちょうしゅう)していました。
石州文禄御公用銀(せきしゅうぶんろくごくようぎん):
 
朝鮮出兵
天領(てんりょう):
 
自分山(じぶんやま):
 民間経営者(山師)が代官所と契約して、運上金を納める形で銀採掘を行なった坑道。
御直山(おじきやま):
 幕府が資金を出して坑道を開発し、代官所が直々(じきじき)に管理した坑道。
代官所直営


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