銀山街道・沖泊道 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office  元に戻る TOP画面
 沖泊道(おきどまりどう)は、銀山から沖泊まで約12Kmある街道です。16世紀後半毛利氏の時代に、銀や生活物資などが運搬されていました。街道途中には坂などの難所が幾つかあり、大変であったことが歴史的遺産や伝承として残っています。

■石見銀山柵内→坂根口番所→降路坂→宿場町・西田(上市,中市,下市)→清水集落・金びしゃく井戸→温泉津→沖泊

■石見銀山遺跡関連
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坂根口番所
(さかねぐちばんしょ)
 #F078 撮影C:2007/03/31 説明板  #F078−1 撮影C:2007/03/31 坂根口番所跡
坂根口番所跡 説明板内容
 古図によると、江戸時代、石見銀山の柵内(さくのうち)には柵を廻(めぐ)らし、その柵には街道に通じる10か所の出入り口に番所を置いていました。番所では人の出入りを監視するとともに、商人が銀山に運び込む物資に課税(かぜい)し、徴収(ちょうしゅう)していました。10か所の番所の位置は時代によって変わりますが、その一つであるこの坂根口番所は、銀山の西側、港のある温泉津と銀山とを結ぶ主要街道への出入り口の番所として江戸時代を通じて設置されていたようです。


番所の建物は現存しませんが、隣接する現在の民家の場所にあったと伝えられています。

注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。

降路降露坂
(ごうろざか)
 #F078−2,−4 撮影C:2007/03/31  #F078−3,−5 撮影C:2007/03/31
 F078−6 撮影C:2007/03/31 降路坂  ---
 #F078−7 撮影C:2007/03/31 降路坂 ■降路坂(ごうろざか) 坂にあった説明板の内容
 ここから西田村境の峠までの、曲がりくねった急な坂道1.1Kmは「降路坂」と呼ばれています。この坂のある街道は、銀山から西田,湯里を経て温泉津港までの、銀の輸送路でした。坂の途中には梅雨左衛門を祀る大岩や、苔むした屋敷跡が点在し、銀山華やかなりし頃が偲ばれます。

■七騎坂(しちきざか) 降路坂に伝わる伝承

 石見銀山をめぐる争いで、尼子氏(あまごし)と毛利氏(もうりし)が戦った時代に、戦いに敗れた毛利元就(もとなり)が、この坂までのがれて来たそうです。元就は死を覚悟しましたが、七人の家来が追ってきた敵陣に突っ込み抵抗し、その間に元就が逃れたと伝えられる場所の坂です。七人の勇気ある家来のことから、七騎坂とも呼ばれています。
★銀の道振興協議会「ふるさと学習誌」石見銀山〜戦国時代の遺跡を歩いてみよう〜を参考

宿場町・西田
(にした)
 #F052−11 撮影C:2007/01/05  #FX01−1 よずくはで
 西田は、銀山街道の宿場町として栄えていたそうです。銀山から温泉津,沖泊へ運ばれる荷物は、ここで一旦牛や馬から降ろされ、再び別の牛や馬に積み替えられて運ばれたそうです。
★銀の道振興協議会「ふるさと学習誌」石見銀山〜戦国時代の遺跡を歩いてみよう〜を参考
 昔の西田は大きな町で、上市,中市,下市の三つに分かれた大きな市が開かれていました。現在は面影なく、農村の雰囲気です。「よずくはで」はこの地方に伝わる独特の稲束の干し方で、ミミズクに似ていることからその様に呼ばれています。

金びしゃく井戸
(かなびしゃくいど)
 #F076−5,−7 撮影F7:2008/04/29  #F076−6,−8 撮影F7:2008/04/29
 #F076−1,−2 撮影C:2007/03/14  #F076−3,−4 撮影C:2007/04/08
 温泉津町湯里の清水集落には、昔から美味しいと評判の井戸があります。銀山が栄えた頃、大森代官がそれを口にして、美味しさに感心し、当時は高価だった金属の柄杓(ひしゃく)を奉納したそうです。そのことが井戸の名の由来になったと伝えられています。 ■昭和61年に島根県の名水百選・くらしの清水に選ばれました。
 島根県名水百選:第17番

清水の古道
(しみずのこどう)
 #F078−8 撮影C:2007/04/08  #F078−11 撮影C:2007/04/23 清水
 #F078−9,−10 撮影C:2007/04/08 古道  #F078−12,−13 撮影C:2007/04/23

沖泊
(おきどまり)
 #F029−8,−9 撮影C:2007/04/23 [拡大  #F029−17,−19 撮影F7:2007/01/18
 #F081−1 撮影C:2007/04/23 上の井戸  #F081 撮影C:2007/04/23 浜の井戸
 #F029−10 撮影C:2006/12/13 恵比須神社  #F081−3 撮影C:2007/04/23 沖泊集落の火除け神
 #F029−3 撮影C:2005/01/14 鼻ぐり岩  #F029−2 撮影C:2005/01/14 鼻ぐり岩
 #F029−12 撮影C:2006/12/13 説明板  説明板の内容
沖泊
 沖泊は、深い入り江と水深にめぐまれ、早くから天然の良港として知られていました。
 港の北に櫛山城(くしやまじょう)跡、南に鵜丸城(うのまるじょう)跡がありますが、櫛山城は戦国時代に毛利氏に最後まで抵抗した尼子(あまご)方の温泉(ゆ)氏の居城(きじょう)であたといわれています。
 後に銀山と温泉津を支配下に置いた毛利氏は元亀元年(1570)に鵜丸城を築き、対岸の櫛山城とともに毛利水軍の拠点として、船の監視と警護を行いました。
 沖泊は、銀の積み出しや銀山での消費物資の陸揚げ等、銀山の外港として重要な役割を担っていました。
 入り江には自然の岩盤をくり抜くなどして作った船を係留(けいりゅう)するための鼻ぐり岩が数多く残っており、かつての賑(にぎ)わいを今に伝えています。
 近くには大永6年(1526)に建立されたと伝えられる恵比須神社(えびすじんじゃ:県指定有形文化財,平成13年度指定)があります。
注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。


資料
恵比須神社(えびすじんじゃ):
 船人が海の神様として信仰した神社で、筑前国那賀群郡芦屋浦の住人が大永6年に建立したとされています。

浜の井戸,正念寺奥の井戸(別名:上の井戸
 集落に住む人々が生活に利用していた井戸水だったそうです。またこの井戸水を、沖泊に入港してきた船に与え、米や酒に交換していたそうです。(大田市観光案内のホームページより。)
■鼻ぐり岩:
 鼻ぐり岩の形は写真(#F029−2)の様な岩に通し穴を開けたものと、写真(#F029−3)の様な縁に膨らみのある円柱形の、2タイプがあります。元々写真(#F029−2)の通し穴のタイプが鼻ぐり岩と呼ばれ、牛の鼻に付ける鼻輪の通し穴に似ていることから名前が付けられました。鼻ぐり岩Bの係留の仕方は、現代の港に見られるビットの係留方法に似ています。


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