銀山街道・鞆ヶ浦道 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office  元に戻る TOP画面
 鞆ヶ浦道(ともがうらどう)は、銀山から鞆ヶ浦(友の浦)まで約7Kmあり、港まで最短距離の街道です。16世紀前半の銀山開発初期に銀鉱石や生活物資などが運搬されていました。神屋寿禎が精錬技術を導入するまで、銀鉱石そのままを運んでいたわけですから、大変さが想像できます。

■石見銀山柵内→吉迫口番所→柑子谷・永久製錬所→上野集落・胴地蔵→馬路高山山麓・宝篋印塔→鞆ヶ浦(友の浦)

■石見銀山遺跡関連
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永久鉱山遺跡
(えいきゅうこうざん)
明治〜大正年間に稼動した永久製錬所跡
 #F077 撮影C:2007/03/31 選鉱場跡  #F077−1 撮影C:2007/03/31 窯跡
 #F077−2 撮影C:2007/03/31 煙道跡  #F077−12 撮影C:2007/03/31 永久坑口
 #F077−4 撮影C:2007/03/31 説明板  説明板内容
柑子谷地区(こうじだにちく)
史跡 石見銀山遺跡 銀山柵内(柑子谷地区)
 永久坑(えいきゅうこう)は、御直山(おじきやま)として元泉山(いずみやま)に採掘された間歩(まぶ)ですが、当初は龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)の水抜き坑として開発されました。また、元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1,400m掘られるなど石見銀山でも屈指の坑道跡です。
 安永7年(1778)には永久稼所(えいきゅうかせぎどころ)と呼ばれる製錬所も稼動するなど、江戸時代を通じて開発が行われましたが、明治20年(1887)には合名会社藤田組が大森鉱山(おおもりこうざん)として近代的な操業を開始します。
 明治32年(1899)に優良な銅鉱脈 内中瀬鉉(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎えますが、大正12年(1923)に採掘条件の悪化等により休山となりました。
注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。

昭流地蔵
(しょうりゅうじぞう)
2007.04.20順番訂正
 #F063−7 撮影C:2007/03/31  #F063−9 撮影C:2007/03/31

胴地蔵さん
(どうじぞう)
 #F063−10 撮影C:2007/04/07 15:15  #F063−11 撮影C:2007/04/07 15:18
 昔銀鉱石を運搬している人が、鉱石を盗んで役人に見つかり、処刑されたそうです。哀れに思った村人が胴体を埋め、地蔵仏を置いて祀った言い伝えから、その様に呼ばれているそうです。 ■大田市仁摩町大国(おおぐに) 上野集落

五輪原の宝篋印塔
(ごりんばらのほうきょういんとう)
 #F063−6 撮影C:2007/03/31  #F063−8 撮影C:2007/03/31

鞆ヶ浦
(ともがうら)
 #F063 撮影C:2006/12/13 鞆ケ浦港 岬から  #F063−1 撮影C:2006/12/13 鵜島厳島神社
 #F063−4 撮影C:2006/12/13 説明板  説明板の内容
鞆ヶ浦

 鞆ヶ浦は石見銀山柵内(さくのうち)の仙ノ山(せんのやま)から直線距離で6.5Kmと、銀山から最短距離の港にあたり、銀山開発の初期に銀鉱石を積み出した港と伝えられています。
 銀山の歴史などをまとめた江戸時代の「石見銀山旧記(きゅうき)」には、「石見国馬路村(いわみこくまじむら)の灘古柳鞆岩(なだこりゅうともがいわ)の浦へ売船多く来たり」とあり、鉱石を買い付ける船で賑わった様子が書かれています。
 入り江には船の係留用の綱を結んだと伝えられる自然の岩盤をくり抜いた「鼻ぐり岩」が数箇所残っています。
 港の北側の小島には銀山を開発した神屋寿禎(かみやじゅてい)が天文4年(1535)に歓請(かんじょう)したと伝えられる弁財天(べんざいてん)を祀る「鵜島厳島神社(うのしまいつくしまじんじゃ)」があります。
注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。


資料
   


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