永久鉱山遺跡 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office 元に戻る TOP画面
 永久坑(えいきゅうこう)は、御直山(おじきやま)として元は泉山(いずみやま)に採掘された坑道です。当初は龍源寺間歩の水抜き坑として開発されました。元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1,400m掘られた石見銀山屈指の坑道跡です。
 安永7年(1778)には永久稼所(えいきゅうかせぎどころ)と呼ばれる製錬所も稼動し、江戸時代を通じて開発が行われました。
 明治20年(1887)に藤田組が大森鉱山として近代的な操業を開始し、明治32年(1899)に優良な銅鉱脈 内中瀬鉉(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎え、大正12年(1923)に採掘条件の悪化等により休山しました。
■住所:島根県大田市仁摩町大国 柑子谷(こうじだに)
■永久稼所(えいきゅうかせぎどころ):
 江戸時代に稼動していた製錬所の名
■永久製錬所/大森鉱山:
 明治から大正にかけて稼動していた近代的製錬所だったそうです。休山後も幾度か再開発されたそうですが、昭和18年の台風26号による水害で閉山状態になり、現在石造りの一部が確認されるのみです。
・窯(かま),分析場(ぶんせきじょう),沈殿池(ちんでんいけ)
・選鉱場(せんこうじょう),煙道(えんどう)
・坑口(こうぐち)
 
永久鉱山(大森鉱山)跡永久製錬所跡
 #F077 撮影C:2007/03/31 選鉱場跡  #F077−1 撮影C:2007/03/31 窯跡
 #F077−2 撮影C:2007/03/31 煙道跡  #F077−3 撮影C:2007/03/31 煙道跡
 #F077−4 撮影C:2007/03/31 説明板  #F077−5,−6 左説明板の写真(拡大)
柑子谷地区(こうじだにちく)
史跡 石見銀山遺跡 銀山柵内(柑子谷地区)
 永久坑(えいきゅうこう)は、御直山(おじきやま)として元泉山(いずみやま)に採掘された間歩(まぶ)ですが、当初は龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)の水抜き坑として開発されました。また、元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1,400m掘られるなど石見銀山でも屈指の坑道跡です。
 安永7年(1778)には永久稼所(えいきゅうかせぎどころ)と呼ばれる製錬所も稼動するなど、江戸時代を通じて開発が行われましたが、明治20年(1887)には合名会社藤田組が大森鉱山(おおもりこうざん)として近代的な操業を開始します。
 明治32年(1899)に優良な銅鉱脈 内中瀬鉉(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎えますが、大正12年(1923)に採掘条件の悪化等により休山となりました。
注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。

永久坑殉職者慰霊碑永久坑近くの間歩
 #F077−7 撮影C:2007/03/31 柑子谷線林道  #F077−8 撮影C:2007/03/31
 #F077−9 上から 坑口案内,慰霊碑,間歩  #F077−10 上から 永久坑口,坑口拡大,間歩

資料
御直山(おじきやま):
 幕府が資金を出して坑道を開発し、代官所が直々(じきじき)に管理した坑道。
内中瀬鉉(うちなかせつる):銅鉱脈の名前
永久稼所(えいきゅうかせぎどころ):江戸時代に稼動した製錬所
■昭和18年の大水害:
昭和18年9月18日から20日にかけて山陰地方に降り続いた雨による水害。(台風26号通過に伴う豪雨)

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