山吹城址 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office 元に戻る TOP画面
 山吹城址(やまぶきじょうし)は武将の大内義隆(おおうちよしたか)が石見銀山の防衛の為に要害山に築城した山城跡です。築城は天文2年(1533)で、銀山所有の戦いにより、永禄5年(1562)に毛利氏に奪われ、1600年には徳川領となりました。

要害山(ようがいざん):標高414m(国土地理院地図)

■石見銀山遺跡関連
 [石見銀山跡][五百羅漢][石見城跡][矢筈城跡][矢滝城跡
 [鞆ヶ浦港][沖泊港
  
 #F013−5b,−5c 撮影F7:2007/1/19 要害山(仙山から)  #F013−5,−6 撮影C:2006/11/13 要害山周辺
 #F013−5dx2 撮影C:2007/1/19 要害山(仙山から)  ---
 #F013−4 撮影C:2003/12/07 山吹城址登山道  #F013−4b 撮影C:2006/11/13 山吹城址登山道
 #F013−22 撮影C:2006/11/13 吉迫口の地蔵  #F013−23 撮影C:2006/11/13 休役所跡
 #F013−1 撮影C:2003/12/07 山吹城址  #F013−1b 撮影C:2006/11/13 山吹城址
 #F013−2 撮影C:2004/07/06 頂上から  #F013,−1 撮影C:2004/07/06 頂上から [拡大
 #F013−17 撮影C:2006/11/13 松ヶ鼻  #F013−18 撮影C:2006/11/13 仁摩町
 #F061 撮影C:2006/11/13 大森町 [拡大  #F013−19 撮影C:2006/11/13 仙ノ山
 #F013−10 撮影C:2006/11/13 城上山,馬路の高山  #F013−11 撮影C:2006/11/13 三瓶山
 #F013−10,−14,−16 撮影C:2006/11/13 説明板  #F013−20,−15,−21 撮影C:2006/11/13 説明板
■説明板の内容
 戦国時代、30年あまりに及ぶ石見銀山の激しい争奪戦の間、毛利氏が銀山を支配する永禄(えいろく)5年(1562)、大久保長安(おおくぼながやす)が、銀山奉行となる慶長(けいちょう)5年(1600)などを大きな節目として、山吹城は何度か改修されながら、石見銀山支配の軍事的な重要拠点としての役割を果(は)たしました。
 山吹城の施設は山の全体に広がり、特に山頂部には主郭(しゅかく)を中心に堅土塁(たてどるい)・空堀(からぼり)・石垣などが集中しています。主郭は長方形で南北52m、東西32m、主郭の南北に郭(くるわ,平たん地)が階段状に連続しています。空堀は幅10mで主郭と堀との高低差が6mと深く、堀には木橋(きばし)がかけられていた可能性があります。南側の斜面にある連続堅堀(たてぼり)は19本以上あり、戦国大名尼子氏(あまごし)が銀山と山吹城をおさえた時に築き、北側の郭にある堅土塁は、毛利氏が築いたと考えられます。また主郭の北側の虎口(こぐち)には石垣を設け、周りからも城の存在が目立つようにしています。

@虎口(こぐち) 城郭・陣営の所要にある出入り口
A堅土塁(たてどるい) 土で盛り上げた土手
B主郭(しゅかく) 近世城郭の本丸にあたり、城内で中心になるところ
C空堀(からぼり) 水のない堀で、防御のために設けるほか、城兵の通路などにも用いる
D連続堅堀(たてぼり) 山の斜面の上下方向に堀を掘って、敵の移動や侵入を防じたもの
■説明板の内容
 ここから少し登った場所が山吹城の大手(おおて,入り口正面)にあたり、銀山支配の拠点であった休(やすみ)役所の跡があり、大きな石垣が残されています。まわりには焔硝蔵(えんしょうぐら)、下屋敷(しもやしき)、山吹八幡社(はちまんしゃ)、千京(せんきょう)、魚店(うおだな)、上市場(うえいちば)という地名や、戦国時代に創建された大満寺(だいまんじ)跡、大龍寺(だいりゅうじ)跡があります。頂上からは、北に日本海、東に三瓶山、仙ノ山(せんのやま)、南に大江高山(おおえたかやま)、矢滝・矢筈城山(やはずじょうざん)などを見ることができます。
 山吹城は、戦国時代に石見銀山を支配するために築かれた山城です。標高414mの要害山(ようがいさん)は独立した山で、四方とも急な斜面でかこまれる地形は軍事的にすぐれ、また銀鉱山の仙ノ山と銀山川をはさんで向かい合い、銀山支配に最適な位置にあるといえます。
城は周防国(すおうのくに,現在の山口県)の戦国大名であった大内氏によって築かれたといわれ、その後激しい銀山の争奪戦が続き、永禄(えいろく)5年(1562)には毛利氏が支配しました。江戸時代になると初代銀山奉行大久保長安(おおくぼながやす)は休役所を奉行所として使い、山吹城を普請(ふしん,城の改修)したことや、吹屋(ふきや,銀精錬所)を置いたことが記録からわかります。その後、奉行所は大森へ移転し、代官所となりました。

注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。

資料
■山吹城にあった四門のうちの一門が、大田市大森町の西本寺の山門に移されたと、伝えられています。   

◆注意していること
 1.個人の住宅が風景に写った場合、写真全体の0.7%以下としています。(デパート,スーパー,ホテル,旅館,公共施設などは除く)
 2.写真が規制されている名所の場合は、撮影及び掲載可能か確認をして掲載しています。
撮影:又は撮影F:FUJIFILM FinePix−F410, 撮影C:OLYMPUS C−750UZoom, 撮影D:KONIKA MINOLTA DiMAGE−Z3

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