間歩 (石見銀山遺跡) | Fukutomi design office | |||
石見銀山では明治以前は坑道(こうどう)のことを間歩(まぶ)と呼んでいました。明治以後は現在でつかわれている坑道と呼ばれるようになり、明治を境に呼び名が変わりました。 |
間歩番号1 | 間歩番号164 | 間歩番号500 | 龍源寺間歩 | ||
間歩番号3 | 間歩番号165 | 大久保間歩 | 間歩番号530 | 紺屋間歩 | |
間歩番号71 | 間歩番号166 | 間歩番号531 | |||
間歩番号81 | 間歩番号168 | 金生坑 | 間歩番号 | 永久坑 | |
間歩番号82 | 間歩番号169 | 下金生坑 | 間歩番号 | 新切間歩 | |
間歩番号83 ? | 本間歩 | 間歩番号229 | 昆布山谷 | ||
間歩番号84 | 間歩番号230 | 昆布山谷 | |||
間歩番号100 | 釜屋間歩 | 間歩番号232 | 新横相上坑 | ||
間歩番号 | 新横相間歩 | ||||
間歩番号107 | 間歩番号246 | ||||
間歩番号247 | |||||
間歩番号109 | 間歩番号285 | ||||
間歩番号110 | 間歩番号296 | ||||
間歩番号111 | 間歩番号297 | ||||
間歩番号115 | 間歩番号460 | 福神山間歩 | |||
間歩番号477 | 栃畑谷 |
間歩番号1 (仙山頂上付近 石銀遺跡) | 間歩番号3 (仙山頂上付近 石銀遺跡) |
間歩番号3 (仙山頂上付近 石銀遺跡) | |
間歩番号71 | 間歩番号71 |
間歩番号81,84 | --- |
間歩番号82 | 間歩番号82 |
間歩番号82 | 間歩番号82 |
間歩番号83 本間歩 | 間歩番号83 本間歩 |
間歩番号100 釜屋間歩 | 間歩番号100 釜屋間歩 |
窯屋間歩(かまやまぶ) 慶長年間備中出身の山師、安原伝兵衛により発見・発掘された坑道です。この発見により、減り始めていた石見銀の産出量が増えたと伝えられています。 慶長7年(1602)備中出身の山師 安原伝兵衛は、近年銀の採掘量が減り、清水寺(せいすいじ)に祈願したそうです。祈願すること七日目に「銀の釜」を賜(たまわ)る夢を見たそうです。その夢を大久保石見守に申し上げ、資金を得てこの間歩を発見したそうです。 |
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間歩番号107 | 間歩番号109,110 露頭掘り(ろとうぼり)された場所 |
間歩番号111 | 間歩番号115 |
間歩番号164 | --- |
間歩番号165 大久保間歩 | 間歩番号165,166 大久保間歩 |
間歩番号165−11 大久保間歩 | 間歩番号165−6,−9 大久保間歩 |
大久保間歩(おおくぼまぶ) 説明板の内容 江戸時代から明治時代にかけて大規模に開発された坑道です。 坑内には江戸時代と推定されている縦横に走る坑道や、明治時代の開発で坑道を拡幅(かくふく)した様子など見ることができます。 江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安が槍(やり)を持って馬に乗ったままで入ったという伝承から、大久保という間歩名になったといわれています。 坑口付近には、明治時代の再開発の時に敷かれたトロッコの軌道(きどう)跡や削岩機(さくがんき)による採掘の跡が残っています。 主坑道は坑口から約150m地点で落盤し、坑口から50m地点と約110m地点西に分岐しています。坑内の天井までの高さは最も高いところで約5mを測(はか)り、大規模な坑道であることが分ります。 坑口から約50mのところで、大久保間歩の下部に位置する金生坑道(きんせいこうどう)と連結する明治時代の竪坑(たてこう)・斜坑(しゃこう)があり、坑道の掘さく技術の移り変わりを見ることができます。 |
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間歩番号168 金生坑 | 間歩番号169 下金生坑 |
新横相間歩 | 新横相間歩 |
間歩番号232 新横相上坑 | 新横相間歩(しんよこあいまぶ) 近くの説明板内容 「横相」は弦(つる)と呼ばれた鉱脈を追いかけて掘り進む「ひ押し」という技術に対し、鉱脈の方向をあらかじめ調査して、弦の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった弦を堀進む採掘の技術です。「ひ押し」は、地中深く掘るにつれ地下水が湧き上がり、作業ができなくなりますが、「横相」は、排水を兼ねた水平坑道などで、坑内にたまった地下水が処理できるようになりました。 この間歩の開発は江戸中期以後とされ、代官所直営の「御直山(おじきやま)」で「五か山」の一つでした。良鉱を多く出しており、最も採鉱が盛んな時期であった安政5年(1858)に働いた労働者は、鉱石を掘る「銀掘(かなほり)」23人、鉱石を運ぶ「柄山負(がらやまおい)」と銀堀の手伝いである「手子(てご)」7人という記録があり、そのほか水替(みずかえ)やに荷負(におい)などをあわせると総数50人ほどだったと推測できます。 坑道は、入り口から水平に約370mほど続いていますが、現在は約40m地点で崩れ、入れなくなっています。 注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。 本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています |
間歩番号230 (昆布山谷) | 間歩番号229 (昆布山谷) |
間歩番号230 (昆布山谷) | 間歩番号246 (出土谷) |
間歩番号247 (出土谷) | 間歩番号285 |
間歩番号296 (永久坑近く) | 間歩番号297 (永久坑近く) |
間歩番号460 福神山間歩 | 間歩番号460 福神山間歩 |
福神山間歩(ふくじんやままぶ) 説明板の内容 この間歩(坑道)は、採掘にあたった山師個人が経営した自分山(じぶんやま)のものですが、一時期、代官川崎市之進(かわさきいちのしん1767〜1778年)のころには、代官直営の御直山(おじきやま)の坑道になったこともありました。御直山は天保15年(1844)には23か所まで増えますが、自分山は享保14年(1730)に55か所もあったものが、天保15年には9か所となってしまいます。 石見銀山には主な鉱脈が23本あったと伝えられおり、そこから岩盤の亀裂に沿って30cm前後の幅で鉱石を含んだ支脈が延びていました。 |
この間歩は坑口が3か所あって、上段の坑は空気抜(ぬ)き坑、下段の2坑は中でつながり、説明板のある道路の下2mほどのところを通って銀山川の下をくぐり、後ろにそびえる銀山の最高地点「仙ノ山」の方向に堀り進んだと伝えられ、仙山(せんのやま)の逆方向へ向かって坑口が開いている珍しい間歩です。 |
間歩番号477 (栃畑谷) | 間歩番号477 (栃畑谷) |
間歩番号500 龍源寺間歩 坑口 | 間歩番号500 龍源寺間歩 坑口 |
間歩番号500 龍源寺間歩 坑内 | 間歩番号500 龍源寺間歩 坑内 |
龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ) 龍源寺間歩は島根県中央部の大田市大森町を中心とする仁摩町,温泉津(ゆのつ)町にまたがって点在する石見銀山遺跡の一つです。 江戸時代の中頃1715年に掘られた代官所直営の坑道です。 公開されているのは273mですが、実際は600mあるそうです。抗口:高さ2.5×巾2m、坑内:高さ約2×巾1m。公開されていない奥:高さ約1×巾0.6m。坑道に入れるのはここだけだそうです。 |
間歩番号530,531 紺屋間歩 |
永久坑 | 永久坑(えいきゅうこう) 永久坑は、御直山(おじきやま)として元は泉山(いずみやま)に採掘された坑道です。当初は龍源寺間歩の水抜き坑として開発されました。元禄6年(1693)から天明7年(1787)にかけて、手掘りで1,400m掘られた石見銀山屈指の坑道跡です。 明治20年(1887)に藤田組が大森鉱山として近代的な操業を開始し、明治32年(1899)に優良な銅鉱脈 内中瀬鉉(うちなかせつる)が発見され、これ以後最盛期を迎え、大正12年(1923)に採掘条件の悪化等により休山しました。 休山後も銅鉱石を掘る開発が幾度かされたそうですが、昭和18年9月の台風26号通過に伴う豪雨で、坑道内に水があふれ、最後の石見銀山(坑道)も事実上閉山状態になったそうです。 |
新切間歩 | 新切間歩 |
説明板の内容 新切間歩(しんきりまぶ) 江戸時代、採掘操業の場所を「山」、坑道を「間歩」と呼んでいました。石見銀山の間歩は、元禄4年(1691)に92ヵ所でしたが、文政6年(1823)の古文書によると新旧合わせて279ヵ所とされ、最近の現地調査では、空気抜きなどを合わせると、500ヵ所を超える坑道を確認しています。 この新切間歩は、幕府代官所直営の御直山」と呼んだ間歩の一つで、正徳5年(1715)、代官鈴木八右衛門(すずきやえもん)のときに開発し、最初は疎水坑(水抜き坑)として掘ったもののようです。 江戸時代後期には、坑口から520mまで堀り進んでいましたが、その後休山となりました。銀山の間歩のなかでは、最も大森の町に近く、標高も低い場所にあったものです。 現在、中に入ることはできませんが、常時出水していることからも水抜き坑であったことがわかります。 注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。 本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています |
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