栃畑谷・昆布山谷 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office 元に戻る TOP画面
栃畑谷
 #F083,−1  #F083−2
説明板の内容 栃畑谷・昆布山谷(とちはただに・こんぶやまだに)

 この説明板の左手、少し高くなった場所に鉱山の神である金山彦命(かなやまひこのみこと)を祀る佐毘売山神社があります。参道から佐毘売山神社に向かって左側の谷が出土谷、右側が昆布山谷で、現在の地を含めて、龍源寺間歩出口前の川に沿ったこの谷一帯が栃畑谷です。どの谷も銀山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が見つかっています。
 栃畑谷の発掘調査ではじめて製錬遺構が発見されたのが現在の地です。16世紀中ごろの遺構のほかにも江戸時代の文献に「三尺」とある灰吹炉や明治時代の藤田組に関連する建物跡も見つかっています。
 文化13年(1816)の「銀山旧記」には「長崎より唐人なりと来たり住す。朽多の頭に唐人屋敷,唐人橋という名あり」とあり、近くに小字(こあざ)「朽多(くた)」と「唐人橋」の名が残っており、唐(=韓、朝鮮半島)からの技術導入をこの地区は伝えています。
 現存しませんが、古図などによると、神宮寺、妙像寺、妙本寺、蓮教寺、長楽寺、長福寺、虎岸寺、西福寺など多くの寺院もありました。
 昆布山谷は水上町三久須(みくす)へ抜ける街道があり、一帯には寺跡、集落跡だけでなく、数多くの間歩が残っています。特に「五か山」の一つで、代官所直営の「御直山(おじきやま)」である新横相間歩がある谷として知られています。
注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています
 #M477 栃畑谷の間歩 間歩番号477  #M477−1 栃畑谷の間歩

昆布山谷/新横相間歩
 #F082,−1 昆布山谷  #F082−2,−3 新横相間歩
説明板の内容 新横相間歩(しんよこあいまぶ)

 「横相」は弦(つる)と呼ばれた鉱脈を追いかけて掘り進む「ひ押し」という技術に対し、鉱脈の方向をあらかじめ調査して、弦の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった弦を堀進む採掘の技術です。「ひ押し」は、地中深く掘るにつれ地下水が湧き上がり、作業ができなくなりますが、「横相」は、排水を兼ねた水平坑道などで、坑内にたまった地下水が処理できるようになりました。
 この間歩の開発は江戸中期以後とされ、代官所直営の「御直山(おじきやま)」で「五か山」の一つでした。良鉱を多く出しており、最も採鉱が盛んな時期であった安政5年(1858)に働いた労働者は、鉱石を掘る「銀掘(かなほり)」23人、鉱石を運ぶ「柄山負(がらやまおい)」と銀堀の手伝いである「手子(てご)」7人という記録があり、そのほか水替(みずかえ)やに荷負(におい)などをあわせると総数50人ほどだったと推測できます。
 坑道は、入り口から水平に約370mほど続いていますが、現在は約40m地点で崩れ、入れなくなっています。

注:説明文をそのまま利用される場合は、許可が必要と思います。
  本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています
 #M230,M229 昆布山谷の間歩  #M230−1 昆布山谷の間歩, #M232 新横相上坑


資料
■採掘技術 横相(よこあい)とひ押し 
 横相は弦(つる)と呼ばれた鉱脈を追いかけて掘り進むひ押しという技術に対し、鉱脈の方向をあらかじめ調査して、弦の方向に直行するように横から坑道を掘り、坑内で掘り当たった弦を堀進む採掘の技術です。ひ押しは、地中深く掘るにつれ地下水が湧き上がり、作業ができなくなりますが、横相は、排水を兼ねた水平坑道などで、坑内にたまった地下水が処理できるようになったそうです。
 


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