大久保間歩(石見銀山遺跡) Fukutomi design office 元に戻る TOP画面
 江戸時代から明治時代にかけて大規模に開発された坑道です。
坑内には江戸時代と推定される縦横に走る坑道と、明治時代の開発で坑道を拡幅(かくふく)した様子を見ることができます。
 坑口付近には、明治の再開発の時に敷かれたトロッコの軌道(きどう)跡や削岩機(さくがんき)による採掘の跡が残っています。
 主坑道は、坑口から50m地点と約110m地点西に分岐しています。坑内の天井までの高さは最も高いところで約5.5mあり、石見銀山の中でも規模の大きな坑道です。坑口から約50mのところで、大久保間歩の下部に位置する金生坑道(きんせいこうどう)と連結する明治時代の竪坑(たてこう)と斜坑(しゃこう)があり、坑道の掘さく技術の移り変わりなどを見ることができます。
■住所:島根県大田市大森町 本谷地区
■名の由来:江戸時代、初代銀山奉行の大久保長安が槍(やり)を持って馬に乗ったまま入ったという伝承から、大久保という間歩名になったそうです。
■大久保間歩は間歩、金生坑は坑道と、区別して呼ばれている理由:
 明治以前は坑道のことを間歩と呼んでいて、明治以後は現在の坑道と呼ばれるようになり、明治を境に呼び名が変わりました。
■石見銀山遺跡関連
石見銀山跡][間歩

大久保間歩は坑内整備が終り、来春から公開されることになりました。テスト的に見学させて頂いた時の写真を掲載します。
 #M165−5 撮影C:2007/12/11  #M165−6 撮影C:2007/12/11 間歩入り口
 #M165−7,−9 撮影C:2007/12/11 #M165−12,−14 撮影C:2007/12/11 トロッコの軌道跡
 #M165−11 天井まで約5.5mの場所  #M165−13,−10

整備前の2007年2月に撮影
 #M165  #M165−1
 #M165−2  #M165−4

資料
   

Copyright ©2003-2012 Fukutomi design office All rights reserved