清水谷製錬所跡 (石見銀山遺跡) Fukutomi design office 元に戻る TOP画面
 明治時代になると、石見銀山では、一部の既存の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採掘がかろうじて続いていましたが、明治19年に大阪の藤田組が、仙山(せんのやま)の福石鉱床の金銀含有率と量に着目し、近代的な製錬所を建設しました。しかし鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力もなかったことから不採算となり、明治29年で操業を停止しました。その施設跡です。 ■石見銀山遺跡関連
五百羅漢][山吹城跡][石見城跡][矢筈城跡][矢滝城跡
[永久鉱山遺跡]
 
 #F062,−2,−4  #F062−1,−3,−5
 #F062−10 2007/04/08 ウォータジェトで清掃?  #F062−11 2007/04/08 清掃後
 #F062−6,−8 看板  #F062−7,−9 看板
■説明板内容  清水谷製錬所跡(しみずだにせいれんしょあと)
 徳川幕府が崩壊し、明治時代になると、石見銀山では、一部の既存 の間歩(坑道)を利用した地元の人たちによる小規模な採鉱(さいこう)がかろうじて続いていましたが、本格的な銀生産の再開は、明治19年(1886)に萩出身の藤田伝三郎(ふじたでんざぶろう)たちが起業(きぎょう)した大阪の藤田組(現在の同和鉱業株式会社の前身)による  採掘権(借区権)の入手を待ちます。

 藤田組は、仙ノ山(せんのやま)の南側の本谷地区の福石鉱床(ふくいしこうしょう)の金銀含有率と量に着目し、それによる銀生産を計画、明治27年(1894)武田恭作氏(当時東京帝国大学冶金学科学生)の設計による近代的な銀の製錬所の建設を開始し、20万円の巨費を投じて翌年に完成、4月から操業を開始しました。
 この製錬所には写真のような施設群があり、福石鉱床で採掘した原料の鉱石は、新たに掘削した金生坑(きんせいこう)と拡張した既存の蔵之間歩(くらのじょうまぶ)を通って製錬所の最上段までトロッコで運んでいた状況をうかがい知ることができます。
 鉱石の品質が予想より悪く、また設備の銀の製錬能力も十分でなかったことから不採算(ふさいさん)となり、明治29年10月に、開始からわずか1年半で操業を停止しました。

 その後、藤田組は柑子谷(こうじだに)に永久製錬所を新たに建設して、銅生産を中心に大正12年(1923)まで操業しました。
■製錬(せいれん):鉱石から金属成分を分離抽出し、精錬(せいれん)して純度の高い、地金を作ること

注:説明文を利用される場合は、大田市役所の許可が必要と思います。本ホームページでは大田市名所の観光案内として載せています。


資料
   


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