楞厳寺(りょうごんじ) | Fukutomi design office |
楞厳寺は、元は法曹相宗ともいわれ、弘仁4年弘法大師が諸国巡錫のおり真言宗に改宗したと伝えられ、延応元年(1239)知見上人によって再興された古刹(こさつ)です。室町時代後期福光美濃守兼国がこの地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰されていました。永禄2年(1559)福光氏の所領を吉川経安がもらい、不言城を居城としました。その10代目城主経家にまつわる石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」と記されています。 また当寺は、石見観音札所32番に指定され、石見銀山天領七福神霊場の七箇所の一つとして、布袋尊が祀られています。 |
山号: 金剛山 寺号: 楞厳寺 宗名: 真言宗 御室派 本尊: 観世音菩薩 住所: 島根県大田市温泉津町福光ハ−67 : 0855−65−3372 :eメール 地図:Google 巡錫(じゅんしゃく):僧が各地を巡って、教えを広めること。 布袋尊(ほていそん):中国では唐時代の終りに、上半身裸でぷっくりお腹を出し市中を占って回っていた禅僧として知られています。日本では弥勒(あみだ)様の化身とされ、七福神の一人で、福徳円満の神とされています。 |
#F050 撮影S10:2011/8/12 | #F050−3 撮影S10:2011/8/12 |
#F050−5,−7 撮影S10:2011/8/12 | #F050−6,−8 撮影S10:2011/8/12 |
#F050−11 撮影S10:2011/8/12 | #F050−12 撮影S10:2011/8/12 |
#F050−10,−16 撮影2011/8/12 不言城址登山道から | #F050−9,−17 撮影S10:2011/8/12 |
#F050−14 撮影S10:2011/8/12 | #F050−15 撮影S10:2011/8/12 |
#F050−1b 楞厳寺の説明板 2011/12/24 | 説明板の内容 |
楞厳寺(りょうごんじ) 宗名: 真言宗 御室派 寺号: 金剛山 楞厳寺 本尊: 観世音菩薩 当山は、元は法曹相宗ともいわれ、弘仁4年弘法大師が諸国巡錫(じゅんしゃく)のおり真言宗に改宗したという。延応元年(1239)知見上人によって再興された古刹(こさつ)である。室町時代後期福光美濃守兼国が此の地を所領とし、福光氏の武運長久を祈る祈願寺として信仰をえる。 永禄2年(1559)福光氏の所領を吉川経安がもらい不言城を居城とし、鳥取城攻めで有名な名将10代目城主経家に纏(まつ)わる墳墓について石見吉川家系図に「営寿墳矣、石州福光県内楞厳寺方」として記す。慶長6年(1601)に経実が岩国へ移住し廃城となり、当山も栄枯盛衰をみる。江戸時代初期、大森羅漢寺の住職の月海浄印が五百羅漢を福光石工坪内平七一門に建立を依頼し、五百羅漢について指導したのが当山の住職であったと伝えられている。平七一門は25年の歳月をかけ羅漢像を完成し、その後檀家となる。明治6年(1873)には学制が発布第174番小学区として当山で開校。観音霊場として今昔ともに深く帰依されている。 |
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#F050−1 福光小三郎兼久公菩提所 | #F050−2 福光城(不言城)址 |
福光小三郎(ふくみつこさぶろう):吉川経家の家臣(かしん)で、仕えて各地を転戦した。1581(天正9)年2月、羽柴秀吉の鳥取城攻めに対抗し、経家が鳥取城へ入った際も従った。同年10月、経家が鳥取城の開城、秀吉への降伏を決めた際に、秀吉の陣に使者としておもむき、その後経家に殉じて切腹した。 |
看板の内容: 福光城(不言城)址 戦国時代、不言城は福屋氏、福光氏と主を変え、永禄2年(1559)には吉川経安が井田殿村城から移って居城とする。天正9年(1581)、羽柴秀吉の鳥取城攻めに対抗し、毛利方は時の不言城城主吉川経家を鳥取城に派遣、これを守備させるが秀吉得意の兵糧攻めにあい開城。10月25日、経家は城兵の身代わりとして自刃した。経家はその遺書の中で「日本二つの御弓矢(織田氏と毛利氏)の衝突の中で切腹するのは末代までの名誉だ」と記している。 |
#F050−20 撮影S10:2011/8/12 | #F050−21 撮影S10:2011/8/12 |
■石見銀山天領七福神の寺院・神社
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福光石・石仏 福光石採石場 |
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