松江城 (島根県東部の観光名所) | Fukutomi design office |
♪音声 松江城(まつえじょう)は、天守閣正面中央上に入母屋破風(いりもやはふ)と呼ばれる桃山時代の建築様式を取り入れた三角屋根があり、千鳥が羽をひろげた姿をしていることから、別名千鳥城(ちどりじょう)とも呼ばれています。慶長16年(1611)出雲・隠岐の領主堀尾吉晴が5年の歳月をかけて築城させました。 天守閣外観は5層、内部は6階で、高さは約30mあり、広さ,高さは全国に現存する12天守閣の2番,3番にあります。特徴は、最上階が四方を見渡せる望楼式で、壁は白壁が少なく、黒く厚い板で覆われ、石垣はごぼう積みと呼ばれる強固な積み方がされています。象徴的な美しい城というより、実戦を想定して建てられた城の様です。 城主は、堀尾吉晴,忠氏,忠晴の3代、京極忠高の治政を経て、寛永17年(1638)からは初代藩主松平直政が城主となり、以来松平氏10代234年にわたって出雲松江18万6千石の藩主となりました。 |
住所:〒690−0887 島根県松江市殿町(とのまち)1番地 松江城は標高28mの亀田山に、慶長12年(1607)から築かれ、5年の歳月をかけて、慶長16年(1611)に完成しました。 堀尾吉晴(ほりおよしはる)/茂助(もすけ):慶長5年、関が原の戦功によって、出雲・隠岐24万石の領主となり、富田城(とだ)に入城したそうですが、戦略上の都合により、松江に城地を移したそうです。松江城は吉晴が築城させましたが、完成を前にして亡くなっています。 天守閣:2015年7月8日、城が完成した年を裏付けるが見つかり、全国で63年ぶりに天守が国宝指定されました。 2013年6月20日旅行者からの口コミ評価をもとに、「行ってよかった日本の城 2013」で、松江城が第三位にランク 注:説明内容は、観光案内所(松江城山公園管理事務所)で頂いた、松江城のパンフレットから引用しました。文面をそのまま利用する場合は許可が必要と思います。本HP.では観光案内を目的に掲載しています。 |
天守閣, 堀川遊覧船 天守内, 城山稲荷神社, 松江神社 |
動画:天守閣, 天守最上階から, 堀川遊覧船-1,-2 |
#F113,−2 県庁前から二之丸上ノ段 南櫓,中櫓 | #F113−1,−3 県庁前から大手門前駐車場への途中 |
#F113−4 | #F113−5 市営 大手前駐車場 |
#F113−6,−35 上:大手木戸門跡 下:門入り口案内板 | #F113−7,−9 大手門跡,馬溜(うまだまり) |
史跡松江城案内図(しせき まつえじょう あんないず)♪音声 松江城は慶長12年(1607)から足かけ5年の歳月を費やして堀尾吉晴(ほりおよしはる)によって築かれました。 以来、堀尾氏3代、京極氏の治政(ちせい)を経て寛永17年(1638)からは松平氏が城主(じょうしゅ)となり、その間一度も戦乱に巻き込まれることもなく明治維新を迎えました。山陰地方で唯一、天守(てんしゅ)を現存する貴重な城郭(じょうかく)です。 注:この文面をそのまま利用する場合は許可が必要と思います。 本HP.では観光案内を目的に載せています。 |
史跡松江城馬溜(しせきまつえじょう うまだまり) ここは、馬溜と呼ばれる一辺46mほどのほぼ正方形の平地です。入り口には大手柵門、右へ曲がるとしゃちほこをつけた壮大な大手門がありました。西側にある高さ13mの高い石垣や南・東側の腰石垣の塀、さらに内側の高さ1mほどの石垣による土塁でこの平場を四方から守っていました。この入り口の形態は桝形と呼ばれるもので、敵兵の直進を防ぎ、侵入の勢いを弱める機能と、出撃の際にこの馬溜に城兵を待機させ隊形を整える機能を果たしていたようです。発掘調査により、江戸時代のものと思われる井戸が2箇所と内塀へ通じる石組み水路などの遺構面が現在の地面より約50cm下に見つかりました。 |
#F113−10 二之丸下ノ段から三之門に向かう石階段 | #F113−12 右:観光案内所, 左:茶店(二の丸茶屋) |
#F113−14 二の丸茶屋でいただいた、割子蕎麦 | #F113−15 割子蕎麦 |
■割子蕎麦(わりごそば):出雲蕎麦を代表する蕎麦で、昔、盛られていた器から名が付けられているそうです。割子蕎麦には食べ方があります。普通一人前三段重ねの丸い平椀で、それぞれ底があり、同じ量の蕎麦が盛られ、薬味が上にのせられています。まず上椀に赤ポットの蕎麦つゆを注ぎ、一段食べ終わったら残ったつゆを下ノ段に移し、足りないつゆを足して食べます。空の椀は一番下に移動させ、それを最後の段まで繰り返します。 | 割子蕎麦つゆは、ウルメイワシからとった出汁で全体甘い仕立です。薬味は、ワサビではなく大根おろしです。唐辛子を加えて一緒におろした紅葉おろしが正式の様ですが、ここのお店の様に、普通の大根おろしのところもあるそうです。また大根おろしの他にネギ,鰹節削り節,刻み海苔が各段の蕎麦上に同量のっています。何か、食べやすさとコンパクトさを追求した、笊蕎麦の食べ方の様な気がしました。 |
#F113−13,−36 二之丸下ノ段地区 | #F113−11 二之丸下ノ段地区 |
■二之丸下ノ段地区解説板 ニ之丸下ノ段(にのまるしたのだん) 東西100m、南北210mの広大な平地で江戸時代には米蔵がたくさんありました。北には屋敷地、南には幕府の頃。北には屋敷地(やしきち)、南には幕末の頃、御破損方(ごはそんかた)・寺社修理方(城や神社仏閣の建物修理事務所)がありました。 堀尾時代の米蔵跡は、調査後平面整備しました。 御破損方・寺社修理方跡は発掘調査の結果、二棟の礎石(そせき)建物跡が確認され、同じ大きさの上屋を建て、内部を茶店,売店に利用しています。 注:この文面をそのまま利用する場合は許可が必要と思います。 本HP.では観光案内を目的に載せています。 |
#F113−16 | #F113−17 |
#F113−18 正面:トイレ | #F113−19 三之門跡 |
#F113−20,−21 二之門跡 | #F113−22,−23 一之門 |
この一之門をくぐると本丸で、右横に天守閣に登る登閣券を購入する事務所があります。 | |
#F113−24 案内板 | #F113−25 本丸にある登閣券を購入する券売機 |
案内板の内容「松江城天守」♪音声 松江城天守は、外観5層、内部は6階で、高さは約30mあり、全国有数の貴重な天守閣として昭和10年5月13日付で国宝に指定されましたが、戦後間もなく、文化財保護法により、昭和25年に重要文化財に改称されました。 特徴は、最上階が四方を見渡せる望楼式(ぼうろうしき)であり、壁は白壁が少なく、黒く厚い板でおおわれ、石垣はごぼう積みと呼ばれる積み方がしてあります。 城内には兵糧貯蔵用の穴倉、井戸、総桐の階段、寄木柱(よせぎばしら)、石落とし等を備え、実戦本位に造られています。また松平家の家宝備前包平(かねひら)の太刀、武具、調度、古文書、松江天守雛形など約二百点が展示してあります。 |
■望楼式(ぼうろうしき):天守閣の起源の一つは、四方を展望できる望楼からとされ、展望台,司令塔の役割がある。 ■牛蒡積み(ごぼうづみ):石の膨らみの大きい部分を内側に、小さい面を表に出して積む方法。一見粗雑に見えるが、石垣で最も頑丈な積み方とされる。 ■桐の階段:防火,防腐対策として桐が使われている。巾1.6m,厚み10cm。 ■寄木柱(よせぎばしら):柱は、肥え松一本の柱の外側に、板を揃えて寄せ合わせ、これを金輪で閉めて太い柱としている。力学的に普通の柱より強いとされる。 観光案内所(松江城山公園管理事務所)で頂いた、松江城説明文より 注:文面をそのまま利用する場合は許可が必要と思います。 本HP.では観光案内を目的に載せています。 |
#F113−26,−28 天守閣 [拡大1] [拡大2] | #F113−27,−29 天守閣 下:附櫓(つけやぐら) |
城の色が黒いのは、堀尾氏が豊臣氏に仕えていたからだとか、1600年を境に外様大名の城は黒いとかいわれています。実際はどうなんでしょうか? 資料など読みますと、城内地下に兵糧蔵や大井戸があり、外壁1層2層に下見板張という古い様式ですから、実戦を想定して建てられた城だから黒い様に思えます。また、白い漆喰の壁より板で張った壁の方が安く造れるからではないかと思ったりもします。 斜めに開いている窓ですが、光や外気を取り込む他に、攻めてきた相手にここから石を落としたりするそうです。 |
■外様大名(とざまだいみょう):関が原の戦いで、徳川家康側に付いた、徳川家と縁遠い大名。 ■漆喰(しっくい):白壁の表面材で、石灰石を粉にし、繋ぎの刻んだ植物繊維(麻)と、接着剤の海草(フノリ,ツノマタ)を煮た糊を、水で練り上げて作ったもの。 |
#F113−30,−32 右側側面 | #F113−31,−33 裏側 |
■祈祷櫓跡(きとうやぐらあと) 本丸にあった六つの櫓(やぐら)のひとつ。 築城前には、この櫓の立つところに塚があり、また榎木を神木とする荒神が祀ってあったところであり築城時にはしばしば石垣が崩壊する怪異(かいい)が生じた。 「祈祷櫓」の名称は、それを祀りなおし以来毎月この櫓で松江城の安全祈願を続けたことに由来している。 この櫓は「東之出し矢倉」とも記されているが幕末には伝説に基づいて「コノシロ櫓」とも呼ばれた。 二階建てで、一階は三間と六間の十八坪,二階は十坪であり、南側の武具櫓へは長屋造りの多門で続き、北側へは瓦塀が続いていた。 ■六つの櫓 1.附櫓(つけやぐら)天守閣正面入り口に付いた出っ張った建物 簡単に進入することを防ぐ、防衛状設けられている建物 2.祈祷櫓(別名:荒神櫓,東之出し矢倉,コノシロ櫓) 3.武具櫓 4.弓櫓 5.鉄砲櫓 6.乾櫓 |
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#F113−90,−92 北ノ門 | #F113−91 |
#F113−95 馬洗池 | #F113−96 池周辺 |
#F113−97,−99,−101,−103 南やぐら | #F113−98,−100,−102 南やぐら |
説明板の内容 南櫓(みなみやぐら) 南櫓は、二之丸の南東角に建てられた2階建ての櫓です。 江戸時代前期の文献や絵図に南櫓または南ノ弐重屋くら(みなみのにじゅうやくら)という名前が見られ、幕末には御召蔵(おめしくら)とも呼ばれていました。 この櫓の用途は分かっていませんが、建てられた位置から考えると、城下町の南東方向を監視する櫓であったことが考えられます。 |
松江神社 [拡大] | 興雲閣 [拡大] |
明治10年に旧松江藩の人々によって、川津村楽山に松平直政公を御祭神として楽山神社が創建されましたが寛永5年(1628)堀尾忠晴公朝酌村西尾に創建した東照宮を明治32年に合祀し、当地に御遷座松江神社と改称されました。また、昭和6年に松江開府の祖
堀尾吉晴公、松江藩中興の名主・不昧公が配祀(はいし)されています。 本殿は寛永5年(1628)拝殿は寛文元年(1661)建造の権現造り、手水舎は寛永16年(1639)に建築されたものです。 |
興雲閣(こううんかく)は、和の要素を取り入れた木造2階建て、延べ床面積約750uの偽洋館で、1903年9月に明治天皇の外出仮御所として建てられました。明治天皇の御利用はありませんでしたが、4年後の1907年5月に、皇太子であった大正天皇が、山陰道行啓をした時の宿泊施設として使用されました。その後改修され、迎賓館,展示場,旧海軍施設に利用され、1969年に島根県有形文化財の指定を受け、1973年から松江郷土館として利用され2011年に閉館しました。 松江市は、老朽化がすすんだことから、2013年11月から復元工事を始めましたが、元々白い洋館ではなく淡い緑色と判明し、塗り直し工事を経て、2015年7月から元の淡い緑色の姿に変わっています。今秋修理後は、観光の振興を目的とした施設として利用される様です。 |
城山稲荷神社 | 松江護国神社 |
十二年毎に行われる日本三大船神事の一つ、ホーランエンヤと呼ばれる城山稲荷神社式年神幸祭(じょうざんいなりじんじゃ・しきねん・しんこうさい)が当社で行われています。 ホーランエンヤは、城山稲荷神社のご神霊を約10Km離れた東出雲町の阿太加夜(あだかや)神社へ船で運び、一週間にわたって五穀豊穣などを祈り、再び城山稲荷神社へ帰って来る神幸祭です。謎めいたホーランエンヤの由来ですが、神輿(みこし)を船で運ぶ時に、ホーラ,エンヤの掛け声で船を漕いだことからホーランエンヤとなったそうです。 |
#F113−37,−39 稲荷橋 | #F113−38,−40 稲荷橋そばの茶店 |
#F113−41 新橋から堀川遊覧船を撮影 | #F113−42 新橋から堀川遊覧船を撮影 |
#F113−45 脇虎口ノ門跡 | #F113−46 |
#F113−47,−49 亀田橋 | #F113−48,−50 亀田橋 |
#F113−51 堀川遊覧船 | #F113−52 |
資料 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
松江城 ■住所:〒690-0887 島根県松江市殿町(とのまち)1番地 ■標高28mの亀田山に築かれた平山城 ■別名:千鳥城(ちどりじょう) 天守閣正面中央に入母屋破風と呼ばれる桃山時代の建築様式を取り入れた三角屋根があり、千鳥が羽をひろげた姿をしていることから、別名千鳥城(ちどりじょう)とも呼ばれています。 ■築城させた人:堀尾吉晴(ほりおよしはる) 別名を茂助(もすけ)、慶長5年、関が原の戦功によって、出雲・隠岐24万石の領主となり、富田城に入城したそうですが、戦略上の都合により、松江に城地を移したそうです。松江城は吉晴が築城させましたが、完成を前にして亡くなっています。 |
☆補足 ・富田城(とだじょう):現在の安来市広瀬町富田にあった山城で、正式には月山富田城(がっさんとだじょう)というそうです。尼子氏の本城でしたが毛利氏が奪い、1600年には堀尾吉晴が城主となりました。その後堀尾氏が松江城に移って数年後に廃城となったそうです。 |
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■天守閣 象徴的な美しいお城というより、実戦を想定して造られた城
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・天守閣(てんしゅかく):安土桃山時代から江戸時代にかけて、築城時に安土城の様に、城の中心的建造物(天守)を造ることが流行になったそうです。しかし、その後は標的にされることもあって、新規の天守建造や、焼失損壊した天守再建はされなかったそうです。 ・牛蒡積み(ごぼうづみ):石垣の石は細長く、上に乗る石の重みが奥深くまで掛かり、尚かつ内側が外側より太いため、周りの小さい詰め石を取り除いて外側に引っ張ったとしても、内側に重みが加わった広い接触部があって抜けない構造の様です。要は、外側が太く短い石を隙間なく綺麗に並べた石垣は、外側周囲が一番重みを支えていて、接触している周囲ぐるりをノミの様なもので削ると接触部分がなくなり、スポッと外側に抜けてしまい、抜けた一個所から石垣を容易に崩せる様です。 ・桐材の階段:桐材の階段は、現存する他の天守閣にないものだそうで、出雲地方は湿気が多いことから防腐効果のためと、篭城のとき軽くて直ぐに取り外して上の階に引き上げることができるからだそうです。しかし現在、証拠資料が見付かっておらず、信憑性の確認が行なわれています。 ・肥え松(こえまつ):成長過程で樹皮を傷つけ、そこから松ヤニをしみ出させた松で、防腐効果があり腐りにくいそうです。しかし燃えやすく、アカマツの腐敗後に残った肥え松を、松明(たいまつ)に利用することもあったそうです。 |
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■歴史 城
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・時代−西暦 安土桃山1573〜1603年、桃山時代=安土桃山時代後期 江戸 1603〜1868年 明治 1868〜1912年 大正 1912〜1926年 昭和 1926〜1989年 ・島根県国宝建造物(全3件)
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城主 堀尾>京極>松平の3家が居城
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・堀尾吉晴(ほりおよしはる):松江開府の祖 生誕は1543年愛知県大口町堀尾家 松江城主としては1607〜1611年の約4年間 ・松平直政(まつだいらなおまさ):初代松江藩主 ・不昧公(ふまいこう):不昧流茶道始祖 財政困窮の状態で松江藩主になられ、当初は藩の財政立て直しに成功されたそうです。しかしその後、趣味が高じて財政圧迫の原因をつくったそうです。茶人として有名な方です。 |
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